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都立国際高校『校歌』作詞・作曲時の思い出Episode of School Song


土屋正孝元副校長先生から 国際高校『校歌』の作詞・作曲当時のエピソードをご寄稿いただきました。

土屋先生のご尽力でこの素晴らしい校歌が誕生したことがわかり、たいへん感慨深いです。
先生にはいつもPTA-OP会の活動に足を向けてくださり、大変嬉しく思います。
これからも本会にご理解ご協力ご参加のほど、心からお願い申しあげします。
一部をここでご紹介させて頂き、つづきは会員ページに掲載しています。



都立国際高校『校歌』作詞・作曲時の思い出

              
平成二十四年九月二十一日  土屋 正孝

  校歌・校章は開校記念式典(平成元年十一月一日開催)に披露したいという強い要望がありました。 どなたに作詞・作曲を依頼するか話しあいました。 全国初の国際学科の高等学校ということで、都民をはじめ多くの方々から、注目され、期待されておりました。 その期待に応えるべく、作詞・作曲の候補者について、多くの著名な方々があがりましたが、国際学科の趣旨を十分理解していて、作詞力・作曲力のある方をという要望が強く出されました。

 たまたま、私の母が郷里で短歌を習いに行っておりました大岡 博様のご子息が大岡 信氏でありました。

 そこで、大岡 信氏をお願いしようと提案しました。 しかし、大岡先生は、当時、東京藝術大学教授で日本ペンクラブの会長を勤めており、さらに、朝日新聞朝刊に「折々の歌」を、毎日、執筆されておられ、多忙な方でありますので、お引き受けいただけるかどうか分かりませんでしたが、とりあえずお伺いしてお願いしてみようということになりました。

 平成元年年五月のある日、調布市深大寺南町のお宅を訪ねました。 突然の依頼でしたので、先生も戸惑われ、少し考えさせてほしいと、先生は別室に行かれ、小一時間熟慮された後、応接室に戻られ、「私は校歌を作詞したことはないが高校で国際学科を設置することは、我が国の将来を担い、グローバル化する社会に対応する生徒の育成は大切なことなので、お引き受けします」と言われました。「ただし、条件がある。作曲は武満 徹氏にお願いしたい」とのことで了承し、依頼することにしました。

 その年の晩夏、先生からご連絡あり、「歌詞が出来たので取りに来るように」とのことでした。当時、先生は体調を崩し、お茶の水の順天堂大学病院に入院しておられ、そちらに伺いました。 先生は作詞に当たり駒場の国際高校付近を巡り、付近の当時の様子を踏まえて作詞して下さいました。 ただ、一か所、「『駒場野』としたいが、現在の学校付近の状況から『駒場台』とした方が良い」と言はれました。 この原稿を持って、帰校し先生方に見てもらったところ、「『恋の日』は困る。他の言葉に変えて貰うようにお願してほしい」と言われ、再び先生を訪ね、ここは「何か他の言葉に変えて頂けませんか」と、はなはだ、失礼なお願いしましたところ、先生は激怒され、「若い高校生が恋をしないようでは国際社会で活躍できない」と言われ、這這の体で帰校しました。 なお、全国の五〇〇〇余りの高校の校歌で『恋』の言葉が入っているものは本校の校歌を除いては他にありません。

 その後、大岡先生から連絡があり、「作曲をお願いした武満 徹氏に話したところ、多忙で出来ないので、一柳 慧氏に頼むが良いか」ということでした。 一柳 慧さんはニューヨークのジュリアード音楽院に留学されており、「前衛的」な曲になるのではないかと心配する向きもありましたが、了承しました。 九月下旬に一柳 慧氏から作曲が完成した連絡があり、渋谷のお宅に伺いました。 先生の作曲された楽譜は、大変、綺麗でした。口の悪い教員の中には「弟子に書かせたのだろう」と言う者もいましたが、この楽譜は一柳 慧氏が私の目の前で清書したものでした。先生は温厚徳実、誠実で紳士的で、弟子に書かせるような方ではありませんでした。。。

このつづきは、会員ページにて。


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